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覚書色々。 日常のどうでも良いことがメインだと思われ。
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ブログって形態を管理するのに向かない。


htmlでべたっと打つ時は打って、打たないときは長期間放置、みたいな
そういうタイプの人間であって、少なくともこまめに記事を書ける人間ではありません。


今一番何をしたいかと聞かれると 書籍のデザインです。
文字組みとか表紙とかそういうの作ってみたい。
本棚に並べたい本を、作りたい。

電子書籍の手軽さを差し引いてなお紙の本が勝てる部分があるとすれば、それは実体がある、ということそのものに起因する何かだというのは確か。
紙の手触りとか、色とか、表紙の絵とか諸々。

そういうのを、自分のためだけに作ってみたい。
と、思うのです。

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文章を書くとこういう事が起きる。

絵とか、写真とか、そう言った何かと同じ方向性の物を文字で表現しようとするとこうなるわけだが、
まぁ正直、勢い以外の存在しない何かなのである。

若しかするとこういうのは散文詩の一種と同じ扱いになるのではなかろうか、という勢いで論理性に欠ける。
論理をすっとばして伝達しようとするからこうなるのであって。
全く、言葉というのは便利だが不便だ。

当面はそれ以外の方法を考えよう。
もう少し涼しくなればパソコンが熱で固まったりしないだろうから。

頗る忘れっぽい。


何かを作っても、しばらく出し忘れるともう何だったか思い出せなくなる。
ネタはその瞬間に形にしないと、いつの間にか揮発している。
いつか戻ってくる。それは分かっている。
形を変えて、また別の何かになってその目的を果たすだろう。

それでも、幻を生け捕りにしたいと思うのだ。
一瞬見えるだけの、幻を。

人間が忘れるという機能を獲得したのは進化らしい。
ということは進化が行きすぎた結果の忘却だと受け取れなくもない。
忘れることで何らかの利益が発生する。
つまりは、今形にすべき時ではないと 何かが言っているのかもしれない。

難しいところだ。

そう思いながら、今日も砂を落としてみる。

としたのは、以後同タイトルの記事がわっさわっさすることを前提にしているからである。


ところで外国語という物へのある種の憧憬にも似た感情は、完全な無知から来る代物なのではないかと思う。
よく知らない。
自分の物ではないと思うが故に、そこにアートを見いだすのではないだろうか。

日本語を母語とする者が外国で珍奇な日本語の書かれたシャツに失笑するように、英語を母語とする者は常々そのようなむず痒さに悩まされているのだろう。

ただ、その親近性を抜きにしてもフォント造形的な要素が既にあまりにも遠い。
似たような形、しかも大凡30前後の種類しかない統一感。
長く文章を打ったところで、決してばらついた印象はない。

あれは、視覚的に大いにアドヴァンテージだ。
デザイン性という意味でも、数が少ないと言うことは有利に働く。


音声・内容・表現技法その他諸々に於いて日本語は決して劣らないと思う。寧ろ、単に意味を把握するだけならば、そして母語として扱うのであれば、非常に利便性の高い言語だ。
意味の強弱を見た目から知ることが出来るのである。
しかし、其れを見やすく且つ視覚表現効果も…となると途端に小回りの利かなくなる部分もある。

言葉、という意味では、完全に中身で勝負を打たなくてはならない。
それが出来るときと出来ないときがあるので
こうして
色々な実験を試みているのである。


自分が何かを作ろうとするときには必ず遊びも付いてくる。
遊びのない物はきっと誰かが作ってくれる。
真剣そのものの何かはきっと他にもっと凄い人が作るだろう。

楽しめる物が作りたい。
自分が、であり、他人が、であり。
誰かが愉しいと思える物が価値のある物なのだと思う。

だから、自分にしか需要のない物も、狭く狭くひたすら狭いエリアでしか受け入れられない物でも、
そこに遊びがあるならそれが良いと思うんだ。

って、最近の思考。

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